しばらく松本零士先生の特設ページにします。時間ができたら整理します。
松本零士先生が亡くなった。いつか来るかもしれなかった日が来てしまった。本当に悲しい。悔しい。
最初に松本先生とお話する機会を得たのは10数年前だったか。地元練馬の、とあるイベントに関わって、パンフレットのデザインやらコピーやらを担当した。名も知らぬイベントの箔をつけるためには、やっぱり大御所の一言がほしい。で、光が丘で行われた別のイベントにゲストとして招かれていることを知り、当時◯馬◯聞の記者だったK氏と突撃することにした。練◯新◯の名前で信用していただけたらしい。コメントと名刺を頂戴し、原稿チェックということで連絡して、それでつながりを持つことができた。
松本先生はご自分でスケジュール管理をされていたので、先生ご本人が出るまで電話をかける必要があった。一発でつながったことはほぼない。基本アシスタントの方が出た。ただでさえ緊張するのに、また30分後。1時間後。おなかも痛くなりそうだ。また人から頼まれてスケジューリングすることもあった。ただただプレッシャーだった。で、アポが取れても、ときどき予定を忘れ出かけられることもあって(私は幸運?にも一度しかない)、玄関に置かれた飛行機のシートで待ったっけ。それとも出直したんだっけ。前の打ち合わせが延びてお待ちすることもあったなぁ。
でも、いつも先生は、とても気さくに迎えてくださった。地球の壁紙が貼られた「宇宙の間」。ご自慢のテーブルは化石がゴロゴロ入っているアフリカのどこかで出土した石を加工したもので今ではつくれない代物だった。そして、先生はいつもうずたかくナニカが積まれた「お宝の山」を背にして座り、打ち合わせに行くと、最初の90分は雑談で、残り30分〜1時間で本題。雑談のほうがたいてい長い。彼のインキンタムシが治ったと女性からお礼状をもらった件。本郷のアパート「山越館」で隣の旅館のカップルを覗き見してた件。手塚先生、石ノ森先生、松本先生の3人で警察に同時にガサ入れされた「自称3大アニメ狂芋づる事件」…と言いながら、「今は狂って書いちゃいけないからマニア」と必ず訂正された…件。手塚先生が九州に逃げてきたときに急遽アシスタントをした件。火星のここに生物の痕跡がある!と写真を見せていただいた件。片道でいいから宇宙に行きたい件。海賊のドクロマークの意味の件。陸軍のパイロットだった先生のお父様が成増飛行場(現光が丘公園)や大泉の地形を覚えていて、最近見たことのように詳細に話してくれた件。大きな貨物船の底をくぐって遊んだ少年時代の件。お父様が復員後に頑として飛行機乗りには戻らずリアカーを引いて苦労したけど「骨のある男の生きざまを学んだ」件。大泉での撮影の休憩中に喫茶店でお話した女優さんの件。大親友のC先生に①押し入れに生えたサルマタケをラーメンに乗せて食べさせた件。②一緒に旅行に行った際に乗ったコンコルドの操縦桿をもたせてもらって急降下して遊んだがC先生にはナイショにしていた件。後期高齢者と書いた封筒が来て後期とはなんだ!と怒っているいる件。超練馬ローカルのモロモロの件。ほんとうにありとあらゆる話を聞かせていただいた。
それだけ話題豊富で人と話をするのが好きな先生だから、コロナ禍の自粛は響いたんだと思う。それを思うと、なんともやりきれない。松本先生に相談しながら実現していない案件がいくつもある。創刊号インタビューで協力していただいたり、イベントに出ていただいたり、それでいて「もう金はいいんです」とお礼を受け取っていただいた記憶はない(こちらのビンボーさが見抜かれていたか)。手土産を忘れて駅の近くでテキトーに買ったたい焼きに喜んでいただいてすみません。何枚も何枚もサイン色紙描いていただいてすみません。なんもお返しできてなくてすみません。そして、きっと、しばらくすると日常に忙殺される。ときどき先生のことを思い出す。そんな時間も短くなる。だから、今日のうちに書いておこうと思った。
まだ信じてないので、最適な言葉が浮かばない。松本零士先生、ほんとうに大変お世話になりました。また、いずれ、遠く時の輪の接する処でお会いしたら、たくさん面白いお話を聞かせてください。
2023.2.21
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