松本零士先生 独占インタビュー

Sep.2012



最初のふるさと九州時代と漫画の仲間たち
誕生日

 私と石ノ森(章太郎)氏とは同年同月同日生まれ(1938年1月25日)で、同じ道を志し、しかも同じ練馬区に住むという奇跡のような縁があるし、なんか、仲間がみんな西武沿線に住むという不思議な現象があって…。

 上京当初、私は地下鉄本郷三丁目駅前の「山越館」に下宿しましてね。上京したその日にちばてつや氏、横山光輝氏に出会ったんですが、下宿先の近くに太陽館という和風旅館があって、そこが漫画家がカンヅメになる場所だったんですね。あっちにトキワ荘グループがあって、こっちには本郷グループがあるというような。だから私は必然的にみんなと知り合うことになって。石ノ森氏もちばちゃんもよく遊びに来てくれて、手塚(治虫)さんなんか「おおいメシ喰わせるから出てこ〜い!」と下宿の下から叫ぶわけ(笑)。

誕生日

 手塚さんといえば、私が高校生のころ九州に脱走してこられて、博多の中洲に仮住まいされた。ところが誰も連れてきてないから、雑誌にも作品が載り始めた私と高井の研ちゃん(高井研一郎)たち九州漫画研究会に声がかかった。「テツタイコウ」と電報が届いて(※1)、近所の薬屋から電話をしてみるとご本人が出て「助けてくれ!」と。で、出向いてみると「好きに描いてくれ」と言うんです。ネームだけ書いてある。こういう場面だ。それだけなんですね。そして、人物の顔など大事なところ以外、背景に群衆を描いたり、建物描いたり、猫のエサ描いたり、その中に自分の出身小学校の紋章を入れてみたりしてね(笑)。自分が関わった!という痕跡を残したかったんです。いっぱいイタズラしたんですなぁ。夜中にふとんかぶってライト引き込んでバカ話しながら描いたり、当時はじまったばかりの航空便で原稿を送る役なんかをしましたね。

 このときのエピソードはいろんな人がいろんな話をしているけど、なにせ昔のことだから当事者でも曖昧になっていることもありましてね。アシスタントを連れてきてないから編集者が慌てて、東京の石ノ森氏や赤塚(不二夫)氏を待機させ、そこに手塚先生の発案で当時できたばかりの航空便でネーム原稿を飛ばして完成させた、と。そうだとすると、のちの有名漫画家たちがみんなで合作した作品ということになる。それはすごいと。でもね、事実はこちらで原稿は仕上げて送っちゃってるんで、石ノ森氏と赤塚氏は非常にガッカリしたという話でしたよ。「我々の原稿がカラーで出る!」ってはりきって描いたのに、すっかり完成した原稿が届いてボツになっちゃったんだから。かえって申し訳ないような気がしちゃいましてね…。実際、仕上がったものを見ても、私たちが九州で仕上げて送った原稿から修正された感じはなかった。だから、それは当時の編集者の記憶違いでしょうね。

 手塚さんとのことはこんな話もあったな。デパートの売場でね、女性がズボンを脱ぐ…んだか履くところだか、そういう場面を描いて飾った。そしたらこれが主婦連騒動になりましてね。色っぽすぎると。カラダの線がリアルすぎると。しまいには教育上好ましくないと主婦連がデパートに押し寄せる騒ぎにまで発展したんですが、そのコマは手塚先生じゃなくて私が描いたんです…(苦笑)。

 私は環境に恵まれていたんですね。北九州、小倉や福岡のあたりは、大手新聞社の西部本社が多かったですから。15歳、高校1年生から毎日新聞の連載を持てたし、それを学費にあてたりできた。あのあたりは映画館も30館以上ありましたね。小倉だけで30館以上ですよ。洋画も邦画もたくさんかかってて、本屋も山のようにあったし…。中尾ミエさんの実家も大きな本屋で、今でも会うと「寶文館の娘で〜す!」と言ってくれますよ(笑)。なんかうれしいですよね。

 私は久留米生まれの小倉育ち。福岡はその中間で、自分の原稿を送るときは小倉から速達だったり、板付…福岡空港まで行って航空便だったりでしたね。出版社からは「一刻も早く勇姿を現したまえ」と手紙が来る。「行きたいけれどお金がありません。ついては原稿料を前借りできませんでしょうか」と返信すると、「来れば渡す」と返事が来る(笑)。それで何もかも質屋に入れて上京したんです。ちょうどトキワ荘にみんながいたころです。

 ※1.「手伝い請う」当時の電報は濁点も料金として加算されるので省略されるのが普通であった。


上京して練馬へ…

 で、上京して、石ノ森氏、藤子不二雄氏、赤塚氏たちに会おうとトキワ荘を訪ねたんですよ。そうしたらたまたまみんな留守だった。安孫子氏(藤子不二雄Ⓐ)だけがいてね、私が廊下でウロウロしていると「おまえは誰だ!」と。「松本です」と言ったら、「おお、キミが松本くんかぁ!じゃ入れ」とね。お互い名前は知ってたけど顔は知らなかったから。部屋に招き入れてくれて紅茶ご馳走になりましたよ。そして各部屋を案内してくれて。「ここが石ノ森の部屋だ」とか。あれから何度も行きましたが、後年はたいへんでしたね。「おい、そこの隅に行っちゃいけない。床が抜けて落っこちるぞ」とか(笑)。面白かったですよ。

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 トキワ荘も最初手塚さんだけだったのが、住人、通い人、どんどん増えましたけど、そのうちみんな独立するようになって西武池袋線の沿線が賑やかになりましたね。中でも練馬区は、手塚さんが富士見台の千川通りのほうにいて、ちばちゃんが駅の反対側、こっち側…いまは練馬高野台って駅ができて、まだ住んでますけどね。そして石ノ森氏が桜台。私が大泉学園。大泉は私以外にも萩尾望都さん竹宮惠子さんモンキー・パンチ氏、ほかにも新谷かおる佐伯かよの…勘違いもあるかもしれないけど、とにかく大勢が練馬に住んでいたんですよ。梶原一騎氏も(大泉)学園町ですよね。うちのまわりなんかも、なぜか絵描きが多く住んでいましたね。で、ここに家を建てることにして、いざ出来上がってベランダに上がってみたら、なんと向こうに東映の撮影所が見える。全然知らなかったんですよね。そこで出かけていったら東映動画があって、まぁそのうちオレも関わることになるだろう…なんて思いながら自転車こいでたら俳優さんとぶつかりそうになったり(笑)。そういう映画の街だから当時は街中や駅前とかで女優さんを見かけることも多くて、駅前で喫茶店に入ったら、扮装のまんまであべ静江さんがコーヒーを飲んでる。「休憩時間だからお茶飲みに来たんです」。のどかな時代ですよ。そういう役者さんが駅前をうろうろしてる。憲兵の格好したのがアンパン買って食べてたりするんだからギョッとするんですけどね(笑)。


練馬との不思議で不思議すぎる結びつき

 そうしているうちにアニメを始めて、東映動画、いまの東映アニメーションに行くようになっても、自転車で3分ですからね。たいへんいいところに越してきたな、と。

 しかし、私と練馬は、それ以外にも本当に思いがけぬ縁がたくさんあるんですよ。

 私の父は戦中飛行機乗りで、陸軍航空士官学校があった入間にいたことがあるんですね。私が練馬に住むようになって話をしていると、「あそこの角を曲がるとあれがあって、こっちへいくとこういうのがあって」とくる。空から見てたのを覚えているんですね。これには驚きましたなぁ。ときどき大泉の桜並木を馬で走って酒を飲みにいく、ということもやっていたようです。陸軍の成増飛行場…いまの光が丘のことも詳しくてね。ちなみに光が丘という名称になったときの選考委員に私も入っていて、九州の父と子が、この練馬で邂逅しているわけですね。

牧野富太郎

 それから、私の処女作は『蜜蜂の冒険』というので、15歳、高校1年生のときですけれど、昆虫漫画ですから植物の名前を間違っちゃいけない。で、牧野植物図鑑というのを参考資料に描いてたんですよ。それが、こちらに来てみたら、牧野富太郎博士の家が駅の向こうでしょ?牧野記念庭園。不思議な…不思議な縁を感じますよね。

 こういう話もあります。以前、伊賀の電車のキャラクターを考えてくれと言われて、ハタと困ったんです。そして調べてみた。すると、驚いたことに、この大泉が忍者服部半蔵率いる伊賀組の給地。訓練場だったんですよ。なーんだ、ここ描いときゃよかったんだ!と(笑)。まさか自分の住んでいるところが伊賀とつながっているとは…。

 あとはなんと言っても、同年同月同日に生まれて同じ職業を目指すに至った松本零士と石ノ森章太郎が…時間にすると石ノ森氏が15分くらい早いらしいけど、宮城県と福岡県の時差で考えるとどうでしょうね…それが同じ練馬区で数多くの漫画やアニメをつくった。この奇縁を何と表すべきか…。

 ほかにも練馬には、この近くの比丘尼橋やら、照姫やら、ロマンチックな伝説も多くて、感性に火をつけられる土地というのもありますね。メーテルもそうですが、手塚さんの『火の鳥』とか『リボンの騎士』とかもね、つながってるような気がしますね。


日本漫画のセンパイたち

 私の世代は、戦前、戦中の世代、手塚さんの世代、それから今の世代、みんなに会えたんですよね。『冒険児プッチャー』の横井福次郎さん、『砂漠の魔王』の福島鉄次さん、小松崎茂さん、山川惣治さん、そういった人たちがいて、馬場のぼるさん、花野原芳明さん、大阪から現れた手塚さん、東浦美津夫さん、田川紀久雄さん、それからしばらくして横山光輝さんが出て、その次が私たちの世代。かたまっているんです。だから手塚さんが戦後の第1期だとすると、横山光輝さんたちが1.5期、私たちが…2期じゃなくて1.8期ぐらい(笑)。永井の豪ちゃんたちが第2期です。手塚さんが我々世代の漫画を審査して、我々の世代は鳥山明氏とか、その世代の漫画を審査した。みんなに会えたんですよね。「のらくろ」の田河水泡さんにも、島田啓三さんにも…。

 で、さっき話に出た福島鉄次さん、今度『砂漠の魔王』が復刻されるらしいけど、この方は後年秋田書店に勤められて、我々の原稿の校正をされていたんですね。線の引き方の間違いとかをチェックしてくれていた。それで挨拶に行くと「福島鉄次はもう死んだと思ってくれ…」とおっしゃる。ショックでしたよ。

 横山光輝氏とは新宿の飲み屋で一緒に酒を飲んで、最期の別れが「じゃあオレ先に帰るからな」と言って帰って行ったのが永遠の別れですね。あそこらへんで一緒に酒飲んだ仲間がみんな永遠の別れですよ…。西武線に乗っているとトキワ荘の仲間たちを思い出してね、寂しいですよ。あのときみんな元気だったのになぁ…と。

 小松崎茂さんも…戦後、絵物語で大変な売れっ子だったけれど、あの人の絵も買い込んだりしましたね。某古本屋から連絡が来てね…あそこの社長はむかしよく遊びに来ていて、それから古本の親玉みたいになったけれど…「こんな原稿が売りに出てますけどどうしましょう?」ってときどき電話をくれる。それはまずいだろうということで私が金を出して引き取るわけ。で、小松崎さんに連絡を入れると、「あんたのところにあることがわかれば安心安全だし、なによりあんたが金を出したんだから遠慮せず持っておいてくれ」と言われるんですよ。ピラミッド建造の図であるとか、巨大なカラーの原画。何枚も持っていたんですが、亡くなる前に少し返して、そうしたら小松崎さんの書斎が火事になった。あとで返そうと思っていた原稿だけ残ったんですね。そして亡くなった後に額に入れて奥さんに返したら「主人が帰ってきたみたいです…」と涙を浮かべられながら受け取っていただけました。とっておいてよかったです。


日本漫画の青春

 そうして何人かの原稿を確保してはご本人に返すんです。赤塚氏にもね、最後、630数枚、眞知子さん(夫人)に返したんです。ここに取りに来られたんですよ。そして本人は順天堂大学病院で、しゃべれないけれど視認はできるというから見せて、「ありがとう」って返事が来た。そうしたらその直後に眞知子さんが亡くなっちゃった。それからしばらくして先妻の登茂子さんも亡くなって、そして赤塚氏も2〜3日後に亡くなりました…。けれど630数枚、ドサッと持ってきてくれたんですよ。関西の古本屋さんが。お金にするとものすごい金額だけど、運賃だけでいいです、と持ってきてくれた。

 むかしはね、原稿を返してくれないことが結構あったんですよ。だから知らないところで流通しちゃってる。石ノ森氏の原稿なんてものすごく高いですよ。手塚さんの原稿も、当時、出版社からどっさり一冊分近くもらったことがある。表紙もろともですよ(苦笑)。それ、ちゃんと手塚さんに返しましたけど、私らのころは本当に曖昧だったというか原稿返ってこなかったんですよね。別冊付録とかね。たくさん描いたんだけど1ページも戻ってきてないんですよね…。それが普通だった時代ですよ…。

サルマタケラーメン

 そうやって別冊付録をたくさん描いて、それからいきなり週刊誌になったんですよね。ただし別冊付録はなくならない。ものすごく忙しくなりました。けれど若かったからた〜くさん遊びましたね。あるとき、講談社の別館…よく私たちがカンヅメになった場所…に幽霊が出るらしいと。夜ごと足音が聞こえると。それは探検せねばなるまい…と、手塚さんに石ノ森氏、ちばちゃん、私らで。暗くて怖いんですけどね、好奇心のほうが勝っちゃう。で、何だったかというと、雨漏りなんですね。それが下の階にいると足音に聞こえちゃう。なあんだ!ってことになったり(笑)。下宿でサルマタケができたとき…あれはほんとうにできるんですよ…牧野植物図鑑で調べると「食」となっている。で、当時発売されたばかりのインスタントラーメンに乗せてちばちゃんに振る舞ったんですね。「うまいうまい!」と食べてくれましたよ(笑)。下宿の向かいの連れ込み宿を覗こうと高井くんと机に乗って見てたら墨汁をこぼして原稿の上に流れて、大騒ぎしてたら連れ込みのカップルから笑われたりとかね。他にもあまり人に言えないような悪ふざけもた〜くさんやりましたねぇ。ほんとうに楽しかった(笑)。

 そういえば、あるとき手塚さんが電話してきてね。「助けてくれ〜」と。明くる日が『鉄腕アトム』の試写会なのに映写機が壊れちゃって編集ができない。で、私がさらにオンボロの映写機を持って虫プロに飛んでいって、それで編集をした。だから『鉄腕アトム』のテレビシリーズ第1回目は私の映写機で編集したんです。その機械はまだ持っていますよ。

 私と石ノ森氏と手塚さんはそれぞれ映写機やフィルムを買ってぐるぐる貸し借りしていて、まぁ『自称日本3大アニメマニア』とか名乗っていたんですが、それが警察の手入れを受けてね。私がまだ西巣鴨にいたころ、結婚したての23歳ごろのときに、3人同時に踏み込まれたんです。外事課の刑事に。というのも、RKOというアメリカの映画会社がね、「フィルムを上映して儲けている連中がいる!」と訴えたらしいんです。それで3人が一斉に家宅捜索を受けた。踏み込んでみると映写機にフィルムが積まれている。「なんでこんなものを買うのか!」とくる。こっちは「研究用です。漫画映画をつくるための」。すると、刑事さんはペンをポイッと放って、ふぅ、と息をついて「研究用かぁ。そんならいいや」。それから肩を叩いて「がんばれよ!」、2階から帰って行くところを見てると「がんばってくれよ〜」と手を振っている。3人とも同じだったみたいです。それが『自称3大アニメマニア芋づる事件』(笑)。いまでもこの部屋にぐるぐる回りしていた映写機やフィルムが…石ノ森氏のものも手塚さんのものもあるはずです。お二人のところに行った私のものは、もうご本人がいらっしゃらないのでわからないですけど、私のところにあるのは誰の何だかわかる。近々きちんと整理して、展示できるものは展示したいと思っているんですよね。


練馬には漫画館が必要!

 あらゆる世代の漫画家と交流が持てたことは大きな財産です。そういえば、講談社の裏の別館、今ビルになってしまいましたが、当時のドアノブを私が持っているんですね(笑)。さまざまな漫画家が握ったドアノブです。いずれ練馬に漫画館ができたら飾りたいんですね。 九州では先日漫画館が完成したんですが、本当は練馬に日本一の大漫画アニメ館をつくるべきだと思っているんです。これだけ大勢の作家がいた場所は他にないんですよ。石ノ森氏、手塚先生、ちばてつや氏、モンキー・パンチ氏、萩尾望都さん、竹宮惠子さん、高橋留美子さん…。まだまだ有名な人がもう大勢いたし、いまもいる。こんな場所ほかにないんですよ。そして東映アニメーションもある。アニメプロダクションの数も練馬が日本一でしょう。なのに、漫画やアニメ好きの人も練馬がそんな場所であることを知らないし、練馬区民もピンと来てない。ところがね、外国人は練馬にやってくるんです。私のところにも来ましたよ。ロシア人が。何かあるだろうと思って来たけど何もないから(苦笑)。

練馬を文化観光地に

 こういう時代だから情報はいろいろあるんですね。問題は出すべきところが出せてないことでしょう。それと、区民の人にも、もっと誇りを持ってアピールしてもらいたい。さっきのロシア人もそうですが、中国からも、欧米からも、たくさん来るんです。もちろん日本国内からも。そういう人たちをガッカリさせてはならない。私たちがフランスに行って楽しいのは、美術館に行って作品世界に触れて、画家たちが通ったお店などを巡って、その文化の風景に溶け込むことですよね。そしてレストランに入ってはさっき見た絵画の話に花を咲かせる。絵画をモチーフにしたお土産も買うでしょう。そこで楽しい思い出を残せればまた来たくもなるでしょう。ねぇ。練馬は本当にもったいない。大泉学園駅のあたりに漫画館をつくって、東映アニメーションまでの道筋を漫画アニメロードにすれば、本当に一大拠点になりますよ。世界中から人が来る。フランスからも中国からもロシアからも、イタリアからもアラブからも…。

 日本の漫画がいいのは、思想、宗教、信条、民族感情を大切にして、楽しくどこの国の人が見ても楽しめる作品を本能的に描きアニメ化しているからです。だからいろんな国の言葉に翻訳されて、翻訳されていない国には海賊版として浸透しています。漫画を中心に話ができるし仲良くなれる。絵から入るからわかりやすいということもある。たとえばここにある『火の鳥』を翻訳して持って行けば誰でもわかるんです。まったく違和感なく。そういう強さが漫画なんです。

 建物は、そういう文化発信の象徴なんです。練馬に来て漫画館も何もないというのは致命的なんですよね…。


練馬から漫画とアニメで世界貢献も

 私と、石ノ森氏と、手塚さん。それぞれ『自称日本3大アニメマニア』で、みんな夢を果たしたんですよ。この練馬でね。つまり、この環境…まだまだ緑も多いのに、交通の便もよくて、同業者もいっぱいいて切磋琢磨できる…そんな場所でもあると思うんですよ。だからこそ、なんとかしたいと思いますよね。はるばる外国から訪ねてきて何もない、何もないじゃぁ困る…。

 そういえば、面白い話があるんですよ。私、「ヒミコ」っていう東京湾クルーズ船のデザインをして、もう「ホタルナ」という2号船もデビューします。漫画家の仕事ってのはデザイナーみたいなところもあって、茶碗から船やらビルまでつくりましたな…。わけわからんですよね(笑)。練馬の漫画館も、いかにもそれらしく、優雅にキレイにつくって、目印になるような建物をね…。

筆記用具先進国

 まぁそれはそれとして、外国人のアニメ好きは、私がデザインした船に乗ってから、私のところに来るんですね。じつによく知っています。ロシア人もフランス人も東南アジアの人も。で、東南アジアの青年はね、漫画家になりたいと…上手なんですよ。けれどオヤジに怒られるという。金がかかるからと。なんで?漫画描くのに金がかかる?と言うと、筆記具、紙や鉛筆のたぐいが、全部輸入品だと…。日本はね、紙なんて二束三文で、鼻紙で捨ててたくらいなんだけど、この筆記用具が安かったというのが漫画文化を盛り立てる遠因になったでしょうね。学問も劣らなかったのはこういう背景がある。紙と墨のおかげ。坂本龍馬が紙で鼻をかんで捨てたら、イギリス人が「日本はこんないい紙で鼻をかんでいる…」と驚いたと言うから(笑)。いまでも世界では紙や文房具を自由に使えない国は多いですよ。そういうところに何とかしてあげる方法があればいいなぁと思います。

 漫画はね、おもしろおかしいことがすべてじゃないんですよ。そもそも漫画の「漫」という字にギャグ的な意味合いはない。さんずい、ですね。みずみずしい。又に日に四ですが、四ではなくて目なんです。みずみずしく、また日のごとくあたたかい目…つまり若者の目で描いた画ということなんです。これは北京大学の教授と一緒に「児女英雄伝」の仕事をしたときに言われました。「日本は大変いい字を当てられましたね」と。葛飾北斎が『北斎漫画』で初めて使ったんですが、考えたんでしょうね。

 やっぱり漫画のエネルギー、いまの礎をつくった場所として、練馬区には強い愛着とこだわりを持っています。多くの仲間たちと会った。いろんな思い出もある。そして、私も強く刺激された日本最初の長編アニメ「白蛇伝」が生まれた場所。ここが出発点なのです。これからの若い人たちにも、この土地で刺激を受けて育ってほしい。だからこそ漫画館がほしい。私が所蔵している手塚さんや石ノ森氏、もっと前の有名作家たちの初版本やら、この部屋の中にも貴重なものがたくさんありますが、これらを練馬から動かしたくないんです。よそには貸したくない。そういう意味でも、ぜひ、漫画館を実現させたい。損得勘定じゃないんです。たくさんの仲間たちといい時を過ごさせてくれた練馬への恩返しです。

 それとね、西武線にも協力してもらって、もっといろいろな電車を走らせてね。赤塚氏の「これでいいのだ!」電車とかね、石ノ森氏の電車とか。私ね、すれ違いたいんですよ。友人たちの電車と。楽しいだろうなぁ(笑)。

取材/構成:丸尾宏明 イラストレーション:歌頭うたまる